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リストとは?/ マイワン

[ 644] フランツ・リスト - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

この項目では音楽家のフランツ・リスト(リスト・フェレンツ)について記述しています。彼の従弟であるドイツの刑法学者についてはフランツ・フォン・リストをご覧ください。
オーストリア帝国領内ハンガリー王国のドボルヤーン/ライディング(現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父アーダム・リストと、オーストリア人の母アンナの間に生まれた。家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であったが、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、最終的に最もよく使う言語はフランス語となった。家名の本来の綴りは List で、Liszt とはそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では“sz”の綴りで/s/を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferenc /Liszt Ferencz)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていた事がある。
父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、カール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。パエールの手助けにより翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。
1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。
1838年のドナウ川の氾濫の時にチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。
ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行ののち約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その1人がのちに、指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。
マリーと別れた後、再びピアニストとして全ヨーロッパを席捲したが、1848年にヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。当地でカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだがついに認められなかった。しかし彼女の助言もあってリストはヴァイマルで作曲に専念し、後世に残る作品が世に出された。
1861年にリストはローマで僧籍に入る。それ以降、『2つの伝説』などのようにキリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』はドビュッシーにも影響を与えた。そして、1885年についに『無調のバガテル』で無調を宣言するまでに至ったが、シェーンベルクらの12音技法とは違い、スクリャービンやメシアンと同じような旋法的な作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1958年にようやく発見された。
リストは、晩年には虚血性心疾患、慢性気管支炎、鬱病、白内障に苦しめられた。それは晩年の自筆譜の音符が大きく書かれていることなどから伺える。晩年のシンプルな作品は、病気による苦悩の表れとも言うべき作品が数多く存在している。
リストは1886年、バイロイトでワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞(おそらく肺炎ではない)と心筋梗塞で亡くなり、バイロイトの墓地に埋葬された。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァンフリート館の一部などともに崩壊し、現在では一枚の石板が置かれている。
リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては比類なき能力を誇っており、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないとすら言われている。その余りある技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には、「指が6本あるのではないか」ということがまともに信じられていた。
ちなみにショパンの『練習曲 作品10』だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話は有名である。また突出した演奏技術で万人受けの良かったリストの演奏に、初めショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に(さらにはリストの女癖の悪さに)呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向があり、ショパンが長生きしていたら考え方も変わっていただろう。
当時無名であったエドヴァルド・グリーグは書き上げた『ピアノ協奏曲イ短調』の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。
同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の『ピアノとオーケストラのためのバラード』を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾きこなし、メンデルスゾーンをして「人生の中で最高の演奏だった」と言わしめたほどの演奏をしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり、「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどんな曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。
幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたと言う。彼の曲には両手を広げて4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。彼の技術の高さがうかがえる一面でもある。
ピアニストとしての技量の凄まじさや意気軒昂ぶりを語るエピソードは枚挙に暇がなく、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(後のシューマン夫人)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と言い放ったという。
音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。
自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群はほとんど全てのジャンルの音楽に精通しているといっていいほど多岐にわたる。
彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。ピアニスト時代はオペラのパラフレーズなどの編曲作品を中心に書いた。このころの作品は、現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要する曲が多く存在する。ヴァイマル時代はピアニストとしての一線を退いたが、作曲家としてもっとも活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。テクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大な曲は減り、徐々に曲は短くなり、無調傾向になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべると同じ作曲家が作ったとは思えないほど深い音楽が増える。とくに1880年以降は5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させ、音楽史上もっとも後世に影響を与えた作曲家の最後の偉業となった。
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リストを同時代の人々がドイツ人と見なしていたことは、シューマンの記録などに伺える[要出典]が、父アーダームが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。ハンガリー語が殆ど話せない事を後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「ハンガリー狂詩曲」は、ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけるという、ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人("Magyarmania")には耐え難い混同があり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。後にバルトークはこれを厳しく批判している。
今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。
リストの作品は同じ曲でも第1稿、第2稿……というように改訂稿が存在するものが非常に多い。改訂稿も含めて彼の作品を全て数えると1400曲を優に超える。また紛失した作品や断片、未完成作品もさらに400曲以上あるといわれており、彼がどれくらいの曲を作ったのかを数えるのは不可能に近い。現在は彼の作品の再評価が着実に進んでおり、レスリー・ハワードのリスト・ピアノ曲全集(全57巻、CD95枚)はその代表例である。なお、この全集(補遺1巻、2巻を除く)での演奏時間は延べ117時間(1377トラック)。
彼の作品につく番号は、イギリスの作曲家ハンフリー・サールが分類した曲目別の目録であるサール番号(S.)と、リスト博物館館長のペーター・ラーベによる曲目別のラーベ番号(R.)の2つが用いられているが、現在ではサール番号のほうがよく使われている。
リストは標題音楽に交響詩というジャンルを確立した。彼は13曲の交響詩を作曲しているが、今日「前奏曲」以外、演奏されることはまれである。
「ラ・カンパネッラ」で有名な「パガニーニ大練習曲」はパガニーニの原曲によりながらも独創性の強い作品なので、通常は編曲とは看做さずオリジナル作品に分類する。 ただしパガニーニ練習曲の前身である『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』(S420)は編曲作品とみなす。
リストの曲は10分を超える長大な曲が非常に多い。しかし一般的に大作と呼ばれるのはその中でもごく一部である。
※1、2はリストの作品の中でもマイナーな曲であるが、後に完成するピアノ・ソナタ ロ短調を思わせる循環の手法が見られる。そのためピアノ・ソナタ完成への足がかりなどと見られることが多く、近年注目が高まりつつある。そのため演奏会や音源でも取り上げるピアニストは急激に増えている。
リストと同門には名教師テオドル・レシェティツキがいる。リストとレシェティツキとでは弟子の取り方に違いがあり、レシェティツキは「来る者は拒まず」然で弟子をどんどん採った(多く採りすぎて、大半は助手が教えていた)のとは対照的に、リストは才能を感じる者だけを弟子として採っている。

 

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