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戸惑いとは?/ マイワン

[ 736] 「知の創出」のコモディティ化への戸惑い - My Life Between Silicon Valley and Japan
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050622/p2

の続きだ。結論があって書き始めているのではなくて、書くことで考えてみようという試みだ。元「勉強好きな少年」の一人として、今起きている大きな流れについて、僕自身も実は戸惑っているのである。
世の中は日に日に複雑化し、「勉強能力」「学習能力」が仕事上ますます大切になっているのは事実である。ただその一方で、それだけで飯が食える場(チャンス)が確実に減っている気がしている。インターネットのおかげで。あるいはインターネットのせいで。
それで一つの仮説として、「飯を食うための仕事」と「人生を豊かにする趣味」はきっちり分けて考え、「勉強好き」な部分というのは「音楽好き」「野球好き」「将棋好き」と同じ意味で後者に位置づけて生きるものなのだ、と考えるってのはアリなのかもしれないなと思い始めているのである。文学や哲学が好きで文学部に進んだ人なんかの場合は、「最初から就職先あんまりないぞ」みたいな覚悟があって、ほんの一握りの才能を持った人以外は、「勉強好き」(自分が楽しめると思える領域の勉強)の部分を仕事で活かせるなんて、はなから諦めていた。そしてその部分を「人生を豊かにする趣味」と位置づけて生きるのは、これまでも当たり前の流れだったのだろうと思う。その感じが、文系世界では経済学部や法学部のほうまで、そしてさらに理系にまで、どんどん侵食してくるイメージ。そう言ったらわかりやすいだろうか。同意できる仮説かどうかは別として。
では「飯を食うための仕事」という部分では純粋に何が大切なの? という話になるとやはり「対人能力」なんだろうな。そこをきちんと意識しておかないと、つぶしが利かないんじゃないかなぁ。そんなことが言いたかったのである。ここでいう「対人能力」は前エントリーで述べた「村の中での対人能力」ではない。組織の外に向かって開かれた「対人能力」のことだ。
ソフトウェアを使って行動するのは人間なので、人間の動きをよく知っていることが、ソフトウェア開発者の必須条件なのだ。だから、良いソフトウェアを書く人は、人間の扱いに長けていなければならない。
ハッカーの定義を狭くすることで、現在日本にいる「ハッカー」の多くはハッカーではなくなる。プログラミングが大得意だからといって、対人コミュニケーションや人間観察をおろそかにしているプログラマは、コンピューターの達人であって、コンピューターと人間の達人、つまりハッカーではないからだ。
今後、ハッカーを雇いたいソフト開発会社の経営者は、面接のときに「コミュニケーション力」を見るのではなく、「人間に対する興味」を見るようにすればいいのではないかと思う。
ひょっとすると誤読かもしれないけれど、ここで経営者でもあるRingo氏が書かれているこの「ハッカーの条件」とは「飯を食うことができるハッカーの条件」なのではないかなと思った。
逆にいえば、そうでないハッカー、つまり「対人コミュニケーションや人間観察をおろそかにしているプログラマ」が開発できるソフトウェアは、だいたい皆、遅かれ早かれ、今は200万人とも言われているオープンソース・プログラマーたち(米国以外に住む25歳以下の学生がかなり多く、これからも世界中でその層がどんどん増えていく)によって、無償提供される世界になるのではないか。
「対人能力は陳腐化しないよね」と僕は「これからの10年飲み会」の冒頭で話したが、そのときにイメージした「対人能力」のベースっていうのは、Ringo氏の言葉である「人間に対する興味」と全く同義だ。それさえあれば「対人能力」は場数を踏んでいくと、どんどん磨かれていく。
むろん「そんなものは要らんのだ、頭さえよければ」と思って「勉強好き」少年が人生を見つめるのは自由だが、それで「飯が食える」可能性は、野球や将棋や音楽のプロとして飯を食っていける可能性とまではいかないまでも、けっこう厳しくなるんだろうな、これから。そんなことを最近すごく思うわけだ。
今のグーグルの技術陣ってのは、「対人能力なんてものは要らんのだ、頭さえよければ」というタイプのハッカーにとっての「最後の楽園」という感じがする。だから世界中から入社希望者の列ができているのではないか。グーグルが「狭き門」化していて、グーグルに入れなかったハッカーたちが「グーグルしか行きたいところないんだよなぁ」と言っている姿を見ると、これは何かを象徴しているのかもしれないなぁ、なんて思ったりする。
(このグーグルについてのパラグラフはid:kazamaさんからのトラックバックの指摘が正しい。ご指摘の通りこの文脈ではやや唐突である。グーグルの採用思想に知能偏重がかなり強いのでふっとここで書いてしまった。ご指摘内容について考えた上でいずれ改めて稿を起こしたい)
「知の創出」という言葉が適切かどうかわからないが、知を創出しても、それをデジタル・コンテンツとして定着させたとたんに一気にコモディティ化していく。ならばデジタル化せずに隠しておけばいいか、といえば、大きな流れとしてそういう考え方は淘汰されていくだろう。よって「何か知を創出してそれをコンテンツにまとめてそこで終わり」というタイプの仕事の価値は下落する。「発明とか特許とか世界初の「知の創出」に関わるような仕事はこれからもっと大切になっていく」というのは真実だが、そういうことができる人以外は皆ダメよ、というのは厳しいよなぁ。少なくとも今はもっと「知の創出」をめぐる世界はのんびりしている。多くの人にとって、「知を創出」したら、それを「対人能力」をもって自ら味付けしてカネに変えなければ「飯が食えない」時代が到来する。本当にそうかなぁと自問し、また戸惑いながらも、今、そんなことを考えているわけである。
2005/06/22 18:03 何をいまさら感のある発言かもしれませんが、読んでいて、どちらかといえば「価値とは希少性なので、デジタル革命においては、コピーされる可能性のあるものの価値は、希少性が薄れるので、コピーされない価値が、価値として残る」見たいな話が根底にあるのかなと思いました。と同時に、この話の文脈とは違いますが、コミュニケーション能力さえも(カリスマとかは別にして)、各人がコンポーネント化されていくという流れでは、兌換可能になり、価値が低減していくのではないでしょうか?なので、もっと上位概念の「実現力」とか「流れを読む力」とか「構築力」とか「対応力」とか(この辺曖昧ですが)デジタル化できそうにもなく、コンポーネント化もできなそうな、そういうものが、重要な気がします。#だとすると、じゃどうしたらいいのかと思うと、そこからまた迷路が。。。
2005/06/23 11:17 読んでいて感じたのは「勉強好きな人」と「コンテンツ世界の需給バランスが崩れる」というのは分けて考えるべきだと思う.まず「勉強好きな人」が勉強だけじゃ生きていけない点について.対人能力というのは,相手と自分の共通項を見つけ,相手の言葉で自分を説明するという能力だと思う.これまでの「勉強が好きな人」というのは,勉強をするということ自体が (勉めて強いるの言葉の通り) 崇拝されていて,また全員が持っている共通項であるため特に説明する必要はなかった.ところが,情報化社会になるにつれ,一般の人が日常的に情報に触れる (= 知識を得る,勉強する) ようになり,単に勉強をすることだけでは意味がなくなった結果,勉強によって何が生み出せるのかということに関心がいくようになり,それを説明する能力が必要になったのだと思う.「コンテンツ世界の需給バランスが崩れる」というのは,人間の時間とお金は有限であるというのが根底にあると思う.そのため,コンテンツの量が増えているから値段を下げていこうとしても,需要は近いうちに頭打ちになって短時間で大きな価値が得られるものを創出している企業しか生き残れなくなるという意味だと思った.ここでも人によって持っている価値は違うから,相手をよく知っている人が有利だと思う.結局のところ,情報化社会によって変わるのは(よく言われているように)価値観であり,変わらないのは価値は人間に対してしか生み出せないということかなと.# 長文スマソ
2005/06/24 00:00 一連のエントリで、野球、将棋、音楽、勉強が並んでいるのに違和感を覚えていました。本来の意味では、野球が上手くなるのも、将棋に強くなるのも、演奏の表現力を増すのも勉強のはず。ではここで梅田さんが言う限定された『勉強』とは何を指しているのでしょう。「勉強好きな少年」というフレーズからは学校での学科の勉強を連想します。しかし例えば「物理が好き」「古文が好き」「歴史が好き」という子供がそれで喰って行こうとすれば、その道はアカデミアの世界であり(野球等程ではないかもしれませんが)狭いものであるはずです。そういう特定の分野ではなく、『勉強』が好きだった子供は、本当は何が好きだったのでしょう。『勉強』が好きな子供が長じて社会人になり、『勉強』のようなことをして喰っていけた、とのことですが、ここで両者の『勉強』の内容は連続してはいないですよね。古文が好きだった子供が普通の会社に言って古文をやっていたわけではない。この『勉強』は、例えば与えられたテーマについて情報を収集し、分析してレポートを書く、とか、関連分野の流れをサーベイして新しいアイディアを出す、とか、そういうスキルを指しているのでしょう。あるいは、内容がなんであれそれを(学校の学科で教えられたように)勉強する過程が好きだ、ということかもしれません。確かにそういうスキルはそれだけでは飯が喰えなくなりつつあるのでしょう。指を速く動かすスキルだけではピアニストになれないのと同様に。そのような特定のスキルを限定無しに「勉強」と言ってそれでなんだか通じてしまうとすれば、教育を通じて、その特定のスキルこそが「勉強」なのだ、と思い込まされてしまった、あるいはゴールへとアプローチする過程そのものが目的化してしまっていた、ということなんじゃないかと思います。それで良かったのは、大きな組織が何か一つの方向に動いていて、『勉強』することが組織としてのゴールへのアプローチを後押しすることであったからなのでしょう。それなら過程を目的化していても、ゴールに近付くことはできます。その前提が崩れてくれば、手段は手段として、自らゴールへとアプローチする姿勢を求められるのは当然のこととも言えます。その意味では対人能力も営業能力も手段にすぎないでしょうね。何か、感じた違和感を言葉にしようとしたら使い古された言葉しか出てこなかった感がありますが、元「勉強好きな少年」の一人として私が感じているのはこんなところです。長文失礼。
2005/06/24 03:45 あー、そうそう。僕も「勉強」というのが何を指しているのかよくわからなくて、違和感を感じていました。いわゆる学校でする「勉強」のことをイメージしていたため、先のエントリーで、「勉強さえしていれば良かった時代っていつのことよ?」という疑問を持ったわけです。それと、仕事で「対人能力」が重要とあるのも、「当たり前じゃん!」という感覚なので、何か変な感じがしたわけです(当方、人相手のお仕事のため)。もっとも、その「対人能力」が社内向けだけでは、これからはダメというのはよくわかりますが。ちなみにグーグルのすごい点は、「対人能力なんてものは要らんのだ、頭さえよければ」という人をうまく会社の中で機能させているからではないでしょうか。そういった人たちとうまくコミュニケーションする方法、つまり、そういった人たちとうまくコミュニケーションする「対人能力」に優れた人が影にいるんじゃないかなーと思っています。
2005/06/28 10:09 ここでの主題とは逸れるのでしょうが、つぶやきとして。。僕のこれまでの経験では、コミュニケーション能力を強調する人は総じて開発能力に難ありでした。#もちろん逆もあります学問がどのように社会において、製品において具体的な付加価値に転化するのかを実際の業務上の経験から知ることができない人というのが世の中の大多数だと思いますので交渉だとか営業だとか対人能力だとか、そちらのほうに話が流れていってしまうのも仕方ないのかなと。ソフトもハードも、付加価値を生み出す一つの手段であって、目的では無いですよね。
タイトル戦を見て、これはいい手、これは悪い手、あーだこうだと言うのは楽しいのですが、集中度、真剣度が違う対局者の読みに勝てないことはわかっているので、虚しさも感じます。「負ける」という恐怖がある対局時と、気楽な観戦時では考える手や、感じ方が全然違ってくるので、仮に実戦より優る手を見つけたところで、あまり意味を持ちません。(渡辺明ブログ3/28/08)
国際的なコミュニケーションで大事なのは、意味がある言葉を話せるかということである。この基礎は母国語のなかでどれだけ「意味の含有率」が高い言葉を構成できるか、という能力にかかっている。(日経3/25/08)
序盤から読み合って、その都度折り合って、シーソーの水平を保っていたが、ここで均衡が崩れてしまった。水面下の押し引きで、時間も気力も体力も少しずつ削られ、正直バテた。藤井さんを含め、上位棋士の真の強さはこういう部分にあると思う。(日経3/19/08)
昨日の将棋、試しにボナンザ先生にお伺いをしたら、僕が間違えた局面2つで、先生はピタリと正解手を示されました。昨年3月の凄腕コンピューターではなく、家庭用パソコンでの先生の読みに負けているようでは、楽観うんぬんという問題ではないかもしれません。(渡辺明ブログ3/22/08)
険しさ自体に変わりはないが、その中にドラマティックな場面が出てきたりする。そういう意味では楽しいという感じがする。将棋は5、6手進んだだけで、思ってもみなかった展開に変わったりする。その面白さはずっと変わらずある。(将棋世界2008年3月号)
以前、数学者という職業の人は周囲の人から「大変ですね」と言われてもピンとこない、何故なら当人にとってそれは遊んでいるにすぎないから、という話を聞いたことがあるんですよ。それって少し羽生さんに通じるものがあるなと思いました。羽生さんも考えること自体が楽しくて仕方ないのではないか、と。(将棋世界2008年3月号)
数学的に可能な局面をすべて並べて、片っ端から形勢判断をしてくれと言われたら、かなりの確率で答えられると思いますよ。(中略) でもそれをわかっているとは言わないでしょうから。全然わかっていない局面でどのくらいわかっているのかと問われたら、全然わかっていないのかもしれない。局面自体を把握できれば、正解も見つけられると思うんですけど・・・。羅針盤がきくかどうかというのは、ものすごく大きいんですよね (将棋世界2008年3月号)
先入観をもたない、ということです。(中略) 先入観をもたないで見るのは、なかなか難しいんですよ。先入観をもってみるほうが簡単だし、楽だし、しかも効率がいいんです。でも、先入観をもたないということは、一番大切なことだと思っています。(中略) それは逆に、年齢を重ねれば重ねるほど難しくなります。邪魔するものがいっぱい出てきますから (将棋世界2008年3月号)
(羽生マジックについて) 私自身がどうこうということではなく、将棋は”最後までわからない”ということが大きいのではないかと思います。終わりに向かって可能性が小さくなるゲームでは逆転は少ないでしょうけど、将棋は、常に可能性は低くならない。その意味で、将棋には”最後までわからない”という要素がふんだんに含まれています。だから、私がやっているからということではなく、将棋はそういうゲームなんだ、ということだと思います。たとえば囲碁は、終わりに向かって可能性が低くなります。(将棋世界2008年3月号)
実は、将棋はねじり合いが基本なんですよ。局面が進んでいくと、だいたいねじり合いみたいなものになるんです。だから直線的な感覚で見るのではなくて、歪んだ空間を見るような感覚で見ると楽しいかな、と思います。平面で見る感覚で見ても、よくわからないかもしれません。これは歪んでいるんだ、歪んだものを見ているんだ、というくらいの感覚で見ると、ちょうどいいかもしれません。(将棋世界2008年3月号)
本当のスペシャリストから見ると、厳密には指しこなせていないかもしれないので、いろんな手をやっているだけだと思います。ただし”一回はやってみる”という姿勢は大事にしています。それで手ごたえがあれば続けるし、そうでなければやめる。(将棋世界2008年3月号)
「振り飛車は角道を止めるところから始まる」という「常識中の常識」「最初に覚える常識」すら、いまではかなり疑わしいといわざるをえない状況を迎えているのです。これは数学において、「公理」を疑うのに近いようなことかもしれません。違う公理からは、まったく違う数学が生まれます。(中略) 長年見慣れてきたのとはまったく違う将棋、別の将棋が始まっているのかもしれないのですから。(将棋世界2008年4月号)
「あとまわしにできる手はあとまわしにする」――これは矢倉で生まれ、他の線型にもひろがっていった重要な考え方でした。(中略) 実は振り飛車という戦法にとって、「角道を止める手こそあとまわしにすべき手だった」という可能性さえ否定できないのではないか! つまり相手が居尾車穴熊にしないとわかるまでは、角道を止める手を遅らせる、というわけです。(将棋世界2008年4月号)

 

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